LOGIN冴子との通話が切れた直後だった。 スマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。『赤ちゃんだけ、こちらへ戻してちょうだい』 耳の奥に、あの甘い声がこびりついている。 赤ちゃんだけ。 そこに私はいない。初めから、この人にとって私は、御門の子どもを産むための身体でしかなかったのだ。 下腹部が、きゅっと縮んだ。「痛っ……」 身体を丸めたとき、脚のあいだに生温かいものが触れた。 シーツについた赤を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。 ナースコールを押そうとして、一度ボタンを外した。二度目でようやく押せた。*** 看護師はシーツの赤を確認すると、表情を変えた。「担当の先生に連絡します」 担当の先生は、この病院での診察を終え、クリニックへ戻ったあとだった。「すぐに戻っていただきます。動かないでください」「赤ちゃんは大丈夫なんですか」「まだ何とも言えません」 看護師が病室を出ていくと、急に静かになった。 赤ちゃんが無事なのか、まだわからない。 先生がいつ戻ってくるのかもわからない。 朔弥さんには、知らせずに済ませたかった。 けれど、このまま黙っていて、もし何かあったら。それだけはできなかった。 電話をかけると、彼は一度の呼び出しで出た。「真尋?」 声を聞いた途端、張りつめていたものが緩みそうになった。「……出血しました」「赤ちゃんは」「まだ、わかりません。先生に連絡してもらっています」「今から戻る」 即答だった。 その向こうで、別の声が飛んだ。『社長、今ここで席を立たれたら、銀行側は交渉を打ち切ります。融資が止まれば――』 聞こえた言葉に、現実へ引き戻された。 朔弥さんは、御門を支える金をつなぎ止めようとしている。何百人もの社員と、その家族の生活がかかっている。「来なくて大丈夫です。会社にいてください」 言った瞬間、心細くなった。 本当は、今すぐ来てほしかった。 大丈夫だと言って、そばにいてほしかった。 だけど、今の朔弥さんには、社長としてやるべきことがある。 私のそばにいることではなく、融資をまとめることを選ぶべきだ。 それは、私も彼もわかっていた。 電話の向こうで、朔弥さんは黙った。 遠くで誰かが彼を呼び、別の電話が鳴っている。「朔弥さん。今は、そこにいてください」「……わかった」
「……出入りを禁止しろと?」 「はい。社員へ直接連絡することも、一族会議の名前を使うことも、全部です」 電話の向こうで、朔弥さんが黙った。 遠くで鳴る電話と、社員たちの声だけが聞こえる。 母親を切れと言っている。簡単に答えられる話ではない。 それでも、ここで引き下がることはできなかった。 私は声を落とした。 「……できないなら、私が御門を出ます。今度こそ、子どもも連れて」 電話の向こうで、朔弥さんが長く息を吐いた。 「わかった。本社にも関連施設にも入れない。社員にも直接連絡させない」 電話の向こうで、また朔弥さんを呼ぶ声がした。 「声明も止める。戻ったら、続きを話す」 今度こそ、朔弥さんは私に我慢しろと言わなかった。 *** 朔弥さんとの通話が切れてから、三時間が過ぎた。 窓の外は暗くなっていた。御門ホールディングスから訂正の声明は出たが、最初の声明を写した画像は、もう消せないほど広がっている。 夕食には、ほとんど手をつけられなかった。 ベッド脇で、スマートフォンが鳴った。 表示された名前は、御門冴子。 心臓が速く打ち始めた。 怒りは消えていない。それなのに、すぐには画面へ手を伸ばせなかった。 着信音が病室に響き続ける。 一度、着信が切れた。 すぐに、また鳴り始める。 出ないほうがいい。そう思ったのに、通話ボタンを押した。 「声明を訂正させたそうね」 挨拶もなく、冴子は言った。 「私が辞めると申し上げたことはありません」 「真尋さん、いつまで自分の勝手が通ると思っているの。あなたは御門の嫁にふさわしくないのよ」 「ふさわしくないって、どういうことですか」 「そのままの意味よ。御門のために我慢することもできず、朔弥に母親を追い出させる。そんな人を、御門の嫁とは認められないわ」 「勝手に私の退任を発表したのは、お義母様です」 「私は御門のために必要なことをしたのよ」 頭の中で、ぶちりと音がした。 何が、御門のためだ。 その一言で、私は何度黙らされてきたのだろう。 もう我慢しない。 この人が守ると言いながら何を壊したのか、全部言ってやる。 スマートフォンを握り直した。 今度は、声が大きくなっても構わなかった。
朔弥さんが病室を出てから、十分も経っていなかった。 看護師が窓のブラインドを下ろしに来た。正面玄関だけでなく、病棟の裏口にも記者が集まっているらしい。 「病室の階までは上がれませんから、安心してください」 そう言われても、廊下で足音が止まるたびに扉を見てしまう。 ベッド脇のタブレットには、城戸さんと私の名前が並んだままだった。記事の閲覧数は、画面を更新するたびに増えている。 そこへ、新しい通知が重なった。 『御門社長夫妻、すでに離婚合意か――署名済み離婚届を独占入手』 記事を開くと、見覚えのある紙が映った。 夫の氏名、妻の氏名。私の筆跡で書かれた、高瀬真尋という名前。 離婚を受け入れた日に、私が署名して朔弥さんへ渡した離婚届だった。 写真の一部にはぼかしが入っている。それでも、署名欄と日付は読めた。 記事には、御門家に近い人物の証言として、私たちは以前から結婚生活を終えることで合意していたと書かれている。その直後から、私が城戸さんのホテルへ出入りするようになった、とも。 仕事の打ち合わせで会った日まで、密会に変えられていた。 私を知らない人がこれを見れば、信じるだろう。 離婚が決まった妻が、取引先の男へ走った。お腹の子の父親まで、その男かもしれない。 署名入りの離婚届は、その筋書きを信じさせるには充分だった。 タブレットの縁を強く握った。硬い角が手のひらへ食い込む。 あの日、私は城戸さんのために離婚届へ署名したのではない。朔弥さんから離婚を告げられ、受け入れるしかないと思ったから書いたのだ。 私が結婚を諦めた日の痛みを、不倫の証拠に使われている。 スマートフォンが鳴った。朔弥さんだった。 「記事を見たか」 「はい。この写真、本物です」 「俺が持っていた離婚届だ」 「どこに置いていたんですか」 「屋敷の書斎だ。鍵のかかる引き出しに入れていた」 朔弥さんの後ろで、何人もの声と電話の音がしている。もう会社へ着いたのだろう。 「あの部屋へ入れる人は?」 返事が遅れた。 「……母さんは、屋敷中の予備の鍵を管理している」 「では、お義母様が流したんですか」 「まだ断定はできない」 以前なら、その言葉だけで、また母親をかばうのかと思っただろう。 「だが、母さん以外に離婚届の
すぐには答えられなかった。 悪いところなら、いくらでも浮かぶ。 何も説明せずに離婚を告げた。一条さんを私の下につけ、問題を起こすたびに私を責めた。城戸さんとの関係を疑い、妊娠がわかると、今度は榊原さんへ私の仕事を渡そうとした。 守るためと言いながら、私の仕事も、家も、結婚まで取り上げようとした。 「妊娠がわかった後、榊原さんへ私の仕事を渡す案を認めたのも、あなたです」 「ああ。負担を減らすつもりだった。榊原が澄麗の依頼で君の席を狙っていたとは知らなかった」 「知らなくても、仕事を渡したのはあなたです」 「そうだ」 言い訳をしないところは、いいところに数えてもいいのだろうか。 だけど、同じくらい、大好きだと思うところもある。 社長室で抱き合ったこと。二人で並んで戦った株主総会。不妊治療で何度も傷ついて、それでも二人でここまで来た。 私が眠れない夜は、眠ったふりをしても気づく。私が大丈夫だと言っても、無理をしていればすぐにわかる。 それに、赤ちゃんの心拍を初めて聞いた時の、あの顔。 泣いていないと言い張りながら、私の肩へ顔を伏せた。 さっきも、一条家を敵に回して、私と子どもを家族だと言った。 つらかったことと、幸せだったことを、もうきれいに切り分けられなくなっていた。 ひどい人だ。今もあのときのことを思い出すと腹が立つ。 それでも、やっぱり好きだった。 許さないまま、この人から離れたいわけではない。 でも、ここで許すと言ったら、私が傷ついた時間まで簡単に終わってしまう気がした。 どうするべきなんだろうか。 朔弥さんに手を握られた。 何も言わず、私をじっと見つめている。 急かされてはいない。それでも、何か答えなければと思った。 「私は――」 激しいノックと同時に、病室の扉が開いた。 「社長、失礼します」 秘書室の若い社員が、息を切らして立っていた。手にしたタブレットを胸の前で抱えている。 「社長、記事が出ました」 「何の記事だ」 「奥様と城戸社長が不倫関係にあり、お腹の子も城戸社長の子ではないかと」 「違います」 思わず、朔弥さんを見た。 以前、城戸さんとの関係を疑われたことを思い出した。 「……わかってる。疑ってない」 「はい」 握られた手に力がこ
「そうだ」 驚きはなかった。 『手放したくない。守りたい』 以前、朔弥さんはそこまで言った。でも、離婚を切り出した朝に、なぜ一条さんの入社まで告げたのかは、ずっと気になっていたのに、聞けないままだった。 『離婚しよう』 『仕事の体制も変える。一条澄麗を入れる』 あの言葉を思い出すだけで、今も指先が冷たくなる。 「なぜ、この二つを一緒に言ったんですか」 「澄麗との縁談を断った翌日、一条側から融資を見直すと連絡が来た。母からは、君の父親の事務所にも影響が出ると言われた」 「だから私と離婚しようとした」 「ああ。君を御門から外し、一条とは俺一人で話をつけるつもりだった」 勝手すぎて、すぐには言葉が出なかった。 「……では、一条さんを会社へ入れたのは」 「縁談を断る代わりに、一条側から求められた。社内へ入れれば、両家の関係は続いていると示せる」 「それで、私の下につけたんですか」 「それは俺が決めた」 朔弥さんの両手が、ひざの上で組まれた。 「君の下なら、澄麗も勝手なことはできないと思った。間違ったことをしても、君なら止められると」 「私を守るために、私の仕事場へ一条さんを入れたんですね」 「……そうだ」 ずいぶん便利に信頼されたものだ。 「嫌なら俺のそばに置く、とも言いました」 「業務上の配置の話だった」 「離婚を告げた直後に、次の花嫁候補を俺のそばへ置くと言われて、私はどう受け取ればよかったんですか」 朔弥さんは答えなかった。 「一条さんが資料を勝手に変えた時も、あなたは最初に私を責めました」 「あの時は、母から、君が澄麗を大勢の前で責めて泣かせたと聞いた」 「確認もしないで信じたんですか」 「一条家を怒らせたくなかった。それに、君なら仕事を立て直せると甘えた」 ようやく、きれいではない答えが出た。 「私なら傷つけても、翌朝には資料を直していると思ったんですね」 「ああ」 「最低です」 「わかってる」 「城戸さんとの会議を一条さんに奪われた時も、最初に責任を問われたのは私でした」 「その場で、澄麗を切れば一条が動くと考えた。だが、あれは俺の判断が遅かった」 「案件から外した後も、一条さんを慰めていました」 「泣いたまま一条家へ帰せば、また話を大きくされると思った」 「そして私は
「こちらがその気になれば、御門などいつでも潰せる」 最初に声を上げたのは、冴子だった。 「雅臣さん、それは話が違うでしょう。今日は両家に傷がつかないよう、話を収めに来たのではないの」 「話が違うのはこちらだ!」 雅臣が冴子をにらんだ。 「あなたが真尋さんを離婚させ、澄麗を朔弥さんの妻にすると言ったから、こちらは御門を支えてきたんだぞ」 病室に、白い花の匂いが残っている。 誰も私には言わなかった約束が、当然のように口にされた。 「約束ではありません。お互いの家にとって望ましいとお話ししただけです」 「その話を信じたから、澄麗は待っていたんだ!」 「待てとは言っていません。まして、階段から押しなさいなんて、誰が言うのです」 澄麗が、落とした花を拾おうとした姿勢で止まった。 「……お義母様?」 「そう呼ぶのはやめてちょうだい」 冴子の返事は早かった。 澄麗の顔から、今度こそ作っていた表情が消えた。 「お義母様が言ったのよ。わたくしこそ朔弥さんにふさわしいって。真尋さんは子どももできないし、家格も釣り合わないから、すぐに離婚するって!」 「私は、あなたが人を殺そうとするほど見境のない娘だとは思わなかったのよ」 「澄麗をその気にさせたのはあなただろう!」 雅臣が、床に散った白い花を靴で踏んだ。 「孫ができたとわかった途端、うちの娘を切るつもりか」 「この子は御門の後継です。澄麗さんのために失うわけにはいきません」 冴子の視線が、私ではなく、お腹に下がった。 嫁を交換する話から、今度は子どもの取り分の話へ変わった。 「二人とも、もう黙れ」 朔弥さんが、私のベッドと彼らの間に立った。 「離婚も、再婚も、あなたたちが決めることではない」 「できるものなら、やってみろ」 冴子が顔を上げた。 「朔弥、何を言っているの」 「母さんは、一条家を病室に入れた。真尋に事故だと書かせるために」 「私は両家を守ろうとしたのよ」 「真尋は、まだ自分でトイレにも行けない」 朔弥さんが振り返った。 「そんな真尋の前に、押した人間と金を並べた。それが母さんの守り方か」 雅臣が、朔弥さんの言葉を遮った。 「会社だけで済むと思うな」 彼の視線が、私と城戸さんの間を往復する。 「社長夫人と提携先の男性との
反抗には、たいてい請求書がつく。 翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「こ
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は